『産経新聞』09年7月25日
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『産経新聞』09年7月25日
【都市伝説を追う】有名候補者、又吉イエス代表の素顔に迫る
“唯一神”のすべてが明らかに

 2大政党の時代。地盤もカバンも看板もなく国政選挙に出馬し“独自の戦い”を繰り広げる候補者たちがいる。新聞やテレビなどでは半ば存在しないものとして扱われている彼らの中で、ネット上で「唯一神」と呼ばれ伝説的な存在となっているのが、「世界経済共同体党」の又吉イエス代表(65)だ。「対立候補は腹を切って死ぬべきだ」「唯一神又吉イエスが地獄の火の中に投げ込む」などの過激なスローガンで知られ、実際の得票数をはるかに上回る独特のプレゼンスを示す又吉代表の素顔に迫った。

■唯一神が扇風機を…

 JR高田馬場駅周辺の繁華街から少し離れた新宿区下落合の住宅街。又吉代表が代表を務める世界経済共同体党の事務所は、針灸院やもんじゃ焼き屋などが入居する雑居ビルの4階にあった。

 暗く狭い階段を上る。「地獄の火の中に投げ込まれるようなことになったらどうしよう」と緊張しながらドアをノックすると、又吉代表の妻、正子さん(62)が出迎えてくれた。

 12畳ほどの部屋の真ん中にある簡素な応接テーブルに案内されると、唯一神が自ら扇風機をかついで向きを変え、「冷房の効きが悪くて申し訳ありません。風は来ますか」と気遣ってくれた。とりあえず火あぶりは避けられそうだと一安心した。

 最も話題を集めている選挙ポスターの過激な文言の意図について質問したところ、「腹を切って死ぬべきだ、というのは責任追及であり、日本の責任感の精神なんです。神の当選を邪魔しているのだからその罪万死に値する、という意味でもある」という。公職にある者は命をかけて臨み、失政を猛省すべしということだと、私は理解することにした。

 「参院選のときは(選挙区が東京全域であり多くの立候補者がいるため)首相を名指ししているんですよ」。切腹の指名相手は、衆院選と参院選でちゃんと使い分けがあるようだ。

■雑貨屋の5人兄弟の末っ子

 「私が再臨した沖縄県宜野湾(ぎのわん)市の大山というところがあるんですが、そこの海はとっても…最高です。もちろん私の創造の手によるものです。ほかのところの海ももちろんいいんですが、(宜野湾の海は)とってもいい…」

 又吉代表は昭和19年、沖縄本島中南部の宜野湾市(当時は宜野湾村)の雑貨店に、5人兄弟の末っ子として生まれた。戸籍名は又吉光雄。中央大学商学部に進学し、東京の商社や設計事務所で働いた後、沖縄に戻った。

 家の近くの海で泳いだり潮干狩りをしたり…。子供のころの故郷の美しい海での楽しい思い出を語る又吉代表は、政治の話をしているときの激しさとは全く違う、本当に幸せそうな表情を浮かべた。

 沖縄に戻った又吉代表は自動車販売店勤務、学習塾経営などを経た後、牧師となって教会を開いた。主に精神障害の患者に対し、心のケアを行った。当時は心の病に対する偏見が強く、世間の無理解に苦労を重ねたという。

 そんな中、故郷の海岸を埋め立て地とする計画が持ち上がり、反対運動を起こしたのが政治にかかわるきっかけだった。

 「絶対に許さない」。故郷の海を愛する又吉代表にとって、まったく受け入れがたい計画だった。しかし運動もむなしく、埋め立ては進んでいく。その抗議行動の最中、沖縄県庁で又吉代表は自らをイエス・キリストだとする「再臨宣言」を行った。

 「これは(神としての)予定の行動です。これからは政治を直接私がみる時代だ、時期がきたな、と」。又吉光雄から、唯一神又吉イエスへと変わった瞬間だった。

 以後、平成9年の宜野湾市長選を手始めに、沖縄県知事選、名護市長選などに相次いで立候補。いずれも落選した。

 そして14年、2度目の県知事選立候補の際に掲げた「沖縄県民が唯一神又吉イエスを次期沖縄県知事にしないというなら、本世界経済共同体本部は東京に持って行く。それは沖縄県民の子や孫・ひ孫達、更に末代までの沖縄県の恥になるが、それでもいいのか」との公約に従って、15年の衆院選には東京1区から出馬した。

 「腹を切って死ぬべきだ」のスローガンなどにより、ネットを中心として一気に“全国区”に。この選挙以降は、ずっと東京を活動拠点としている。

■資金源は軍用地地代

 法定得票数に達しなかった候補は供託金を没収される。その額は衆院選挙区立候補の場合300万円。軽い金額ではない。

 「300万円をドブに捨てているのではないか、その金で困っている人を助けられるのではないかとご批判もありました。しかしそれでもやらないといけないのが私なんですね」「私が唯一神の世界経済共同体を作らない限り、一人ひとりの困っている皆さんを助けられないんですよ」

 寄付も最も多いときで200万円ほどであるため、足りない分や実際の選挙活動費は、年400万円ほどある宜野湾市の普天間基地内に所有する軍用地の地代収入から拠出しているという。

 1〜2年に1度のペースで出馬しているため、冗費は許されない。一張羅のグレーのスーツも、2年前の参院選の際に近所のスーパー「ライフ」で買った約1万円のものだ。

 「私はライフ育ちなんですよ。ライフで身を包んでます」。室内を見回しても電化製品の型は古く、本棚にいたっては3段のカラーボックスを2つ並べただけ。唯一神の生活は、実に質素だった。

■「2ちゃんねらーの功績大」

 沖縄時代はほとんど夫婦2人だけで行っていた選挙活動だが、現在はボランティアによって支えられている。

 人数は19年の参院選の場合、50〜60人ほど。ネット上で初めてブレークした15年衆院選では、巨大ネット掲示板「2ちゃんねる」を通じ、個人同士で連絡を取り合った若者約90人が手伝いに訪れたという。

 「2ちゃんねらーのみなさんが連れ立って、たくさん来ていただいたようです」

 当初は学生が多かった支持者層だが、6年がたった今では「外に出ましても声をかけてくださる皆さんが…あれ、世界経済共同体党もちょっと歳とってきたな、年期が入ってきたなと。皆さん、30歳ぐらいになってきてますよ」。

 そんな子や孫ほどに歳の離れた世代のボランティアや支持者たちに囲まれてあれこれ語らうのが、選挙期間中の何よりの楽しみ。

 彼らにパソコンの使い方を習ったり、公式サイトを作ってもらったりしたことを、好々爺の表情で語る。「唯一神又吉イエスにとって、2ちゃんねらーの皆さんの功績は大きいです。とっても大きいです」。

「本当に恩師です」

 「すごく優しくてとてもきめ細かい先生でした。子供心にも、大丈夫かな、と思ったほどに」。学習塾経営時代の又吉代表の教え子だった那覇市の映画館「桜坂劇場」番組責任者の真喜屋力(まきやつとむ)さん(42)は、当時の印象をこう話した。

 「目がまっすぐな人でした。今はやせて目だけギョロッとした感じなんですが、昔はもっとぽっちゃりしていた」

 小中学生を対象に、全教科を又吉代表がみる小さな個人塾。月謝は4000円程度で、当時としても格安だった。教え方は徹底した教科書中心主義で、問題を理解するまでやる。「熱心に、意味を考えるよう教えてくれました。車での送り迎えもあった」という。

 「本当に恩師です。おかげさまで、立派に…かどうかはともかく、社会人としてやっています。今でも感謝しています」。真喜屋さんはいつか又吉代表に会う機会があれば、そう伝えたいという。(磨井慎吾)



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